お話 朝倉万作(遍立寺住職/真浄寺代務住職) 2024年7月31日
皆さんこんにちは。今回東京三組のリレー法話を担当いたします、真浄寺の朝倉万作と申します。
今回は他力本願という事についてお話しさせていただきたいと思います。
真宗における他力本願というのは、「他力というは如来の本願力なり」と親鸞聖人が仰っているように、凡夫の身に立ち返り、阿弥陀如来の建てた一切の衆生を救うという本願力にお任せして浄土に往生するという事になると思います。
ですから他力と言っても阿弥陀如来の本願力ということになるのでしょう。
ここで問題となるのが、凡夫の身に立ち返り、阿弥陀如来の本願力にお任せするということが私たちにできるのかということです。
私たちは自分では凡夫だと思っていながら、馬鹿にされるのは嫌だったり、物事が上手く行った時には有頂天になったり、まーあの人よりはマシかとかなどと思ったり、比較の世界を生きていて、本当に自分が凡夫だというところにとどまれないと思うんです。
また、阿弥陀如来にお任せするといいますが、どうでもいい事ならお任せできると思うのですが、本当に大事なことをお任せするということができるんだろうかと思うわけです。
自分にとって本当に大切なことをいくら阿弥陀さんだからと言っても自分の思いを挟まず、お任せするというのはなかなか難しく、お任せしたらどんなふうにしてくれるの?とか、もうちょっとこうして欲しいとかいう思いが出てきて、自分の思いを離れるっていうことは私たち人間にはなかなかできないんじゃないかと思うんですね。
やはり私たち人間は自我の奴隷と言われるように自分を一番に置いて生活しています。
凡夫に留まることも、全てをお任せするという事もままならない身をいただいていると思うんですね。
そういう私たちだからこそ手を合わせてお念仏を申す。手を合わせるということは自分の握りしめているものを手放すということもあると思うんですね、手を合わせる姿というのは握りしめる姿ではなく頂いていく姿。
阿弥陀如来の本願力ということもそうですが、私たちは他力によって成り立っているんですね。よく考えてみれば自分の存在自体が自分の意志とは関係無いところでこの身をいただいている。空気や水がなかったら生きていけませんが、それも自分が作ったものではない、毎日の食事も動物や植物の命の上に成り立っています。
そして自分の考えだと思っている自分の価値観さえも、親や環境、時代、友達、様々な影響の上に成り立っていると思うんですね。
真宗の信心が如来より賜りたる信心とか、たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べというように言われるのも、自分の信心と思っているその信心さえも他力によって与えられたものだということを教えてくれていると思うんですね。。
私は先生に真宗のお念仏はこうしてくださいという請求書ではなくて、確かにお受け取りしましたという領収書なんだよと教えられたのですが、
気がつくと自分の思いに振り回されて、自分の思いを押し通そうと生活している私たちだからこそ朝、夕とお仏壇の前で手を合わせて少しの間でもその思いを手放して、阿弥陀さんの願い、その他にもさまざまな他力の存在、そしてその上に成り立っている今、ここにある私というものを、確かにお受け取りしていますと手を合わせていくということが大切なことなんだと思います。