お話 山名宗隆(宗善寺住職) 2024年5月24日
東京三組、宗善寺の山名宗隆です。本日はリレー法話ということで少しお話させていただきます。
私、こういうように皆様の前でお話しするのを大変ニガテとしておりまして。なんかちょっと恥ずかしそうに出てきて、ちょろっとお話してね、申し訳なさそうに去っていく。そのような、なんだかなさけない形をしていたわけなんですけど。
それもちょっとずつ変わってまいりまして、しっかりお話しないとなとおもうようになりました。というのもね、このようなお話の場に出て恥ずかしがっているというのは、ちょっと自分勝手だなぁと、自分のことしか考えてなかったなぁと、おもうんですよ。
さっきのお勤め声出てたかなぁとか、このお話ちゃんと通じてるかなぁとか。自分の出来ばかり気にしてた。もっと話の上手い先生方たくさんいるのに、僕みたいなものの話なんか聞いてもらって申し訳ないなぁなんて言ってね。
仏法と出会えるかどうかの瀬戸際ですよねご法話の場ってのは。一大事です。それをこんな自分のことばかり考えてそつなく終えて。それで何も出会えることなく終わったらそれこそ本当に申し訳のない話です。ということで、出来はともかく願いだけは本当であるという自負でやっておるわけなんですけども。
さて昨今、コロナ禍ということで、お葬儀の形がだいぶ変わってまいりました。一日葬とかね、家族葬とか。小さなお葬式といわれてるんでしょうかね、CMでもやってましたけれど。またほかにものこされた子供たちに負担をかけたくない、そんな理由でお墓じまいしときましょうか、という話もよく聞くようになりました。
私もね、やっぱり先代のお葬儀を勤めてみて思ったことなんですけどね、まぁ人を誘っていいものか悪いものか、という問題がありますね。きていただいて、大層なことできるでもないのに来ていただいてなんだか申し訳ないな、という気持ちになったことも記憶に新しいです。
まあでもね、今考えますとそれもやっぱり自分勝手だったなと思うんです。大切な視点が抜けているなぁと。
たしかにお葬儀というのは来ていただく場でもあります。来ていただいて、亡くなった方を回向する、そのような場ととらえています。けれども本当は、私たちは亡くなられた方のほう、阿弥陀さんのほうから回向される存在であるという視点を抜きにしていたんじゃないかと、思うんです。
私から亡くなられた方、または来ていただいた方を回向して何ができるかなぁ~ということではなくて、亡くなられた方のほうから、残された私たちへの回向。本当の世界、お浄土の世界、善悪、上下、出来不出来、そういったものから離れた世界はこうなんですよ!ということを私たちに教えてくださる。そういった場であるということが、ぬけていた、とおもうんです。
だから、私の都合で呼んだり呼ばなかったりで悩む、ということが出てくるんじゃないでしょうか。わかってたらそんなことで悩むのは御門違いってことですからね。
なかなか、その善悪、上下、出来不出来の世界を抜けるといっても、その足をひっぱってくるのは自分の善悪上下の世界、気持ちなんですよね。わかった気になっていても難しいものですよね。
ご清聴ありがとうございました。皆様もご葬儀ご法事の際、またはお墓じまいの際には、
ご自分の都合で考えますと申し訳ないような気にもなりますが、阿弥陀様の回向を皆様でいただくという視点をもって堂々といただいてまいりましょう。
合掌