お話 坪内峰生(教證寺副住職) 2024年1月10日
東京三組、教證寺の坪内です。宜しくお願いします。
普段から手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えている人であっても、日常生活を過ごしている中で悩みや迷いが大きくなってしまったり、
以前の私のように「形だけのお念仏」になっている人の中には、
「本当にお念仏で自分は救われるのか?」
「阿弥陀様ってのは本当に居るのか?」
と疑いを持ってしまうことがあるのではないでしょうか。
人間は見ることの出来ない相手、対話をすることの出来ない相手に対して、
懐疑的な目で見てしまう好ましくない一面を持っています。
自らの力では浄土へ行くことの出来ない我々を、
必ず救うと誓ってくれた阿弥陀様に接していながらも、
救って欲しいと願いお念仏をいただいている身でありながらも、
そのことを疑ってしまう一面は誰しも必ず持っているのではないかと思います。
私は学生時代に
阿弥陀様の存在への疑問について
先生に質問したことがあります。
その時に先生は
自分には見えん阿弥陀さんの存在を疑うことは仕方が無い。
本当に信じられんのならとことん疑いなさい。
疑って疑って疑って、ずっと疑う。
ずっと疑って疑い尽くした後に、疑い切れない何かと出会う。
その何かと出会わないと信じることが出来ない。
そうしないと人間は信じることが出来んのかもしれん。
実は先生自身もそう感じてしまうことがある。
それだけ人間というのは弱い存在なんだろう。
と仰っていました。
今を生きている私たちは、阿弥陀様から直接的に何かをしてもらえることはありません。どれだけお念仏を称えても、今の生活が一変するような事柄はなに一つとして起きません。
しかし、我が身の我が儘な思いや迷いに振り回され、救われないかも知れないと疑いながら南無阿弥陀仏と称えていても、ふと何かに気付かせて貰えることがあるのではないかと思います。
阿弥陀様と直接対面することが出来なくても、自分が今を生き、共に生きてくれる人達が周りには大勢いると思います。
家族や友人知人、さらにその周りにいる多くの人々と共に過ごすことで気が付けることや、
今すぐには気付けなくとも後に気付かせて貰えることに出会えるのかもしれません。
そう感じることことが私自身にもあります。
自分のみならず共に救われたいと願う人達が周りには大勢いるのです。
法要の際にお経を上げていると、
後ろに座っている人達の気配を感じていると、
それを思い知らされることが何度もあります。
お念仏と出会う、阿弥陀様と出会うということは
「ただ救われること」
だけではなく、
「気付かされること」
も含まれるのではないでしょう。
判りきったつもりで判らないのがお念仏の世界なのかもしれません。
時間をかけて阿弥陀様との出会いを感じて下さい。
拙い話ですがお聞きいただきありがとうございました。