2025年4月10日/お話 青山 満(善仁寺住職)
東京三組リレー法話、今回担当させていただきます青山と申します。
今回は親鸞聖人の和讃から一首選ばさせていただきまして、そのお心を問い尋ねて参りたいとおもいます。和讃とは親鸞聖人が主に晩年にお書きなりました四行詩です。
真宗聖典(第二版)の569頁に掲載されております。浄土和讃という題名の中の最初のご和讃です。
弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり
弥陀の名号とは阿弥陀の御名のことでありますので、阿弥陀仏を称える、つまり「南無阿弥陀仏」という称名念仏をすることです。そして、「称えつつ」とありますので、日日のお念仏の生活を送りながら「信心まことにうる」と。ここで親鸞聖人は信心を得ることにつきまして、「まこと」に得るとご注意されます。考えてみますと「まこと」とな何なのか、信心を得るということが「うそ」なのか「まこと」なのかは誰かが判定できるものではないではないか、という問いが浮かんでまいります。
そこで、その「まこと」を証明するものはお念仏を生活を送られる「ひと」の上に二つの相が現れるということが下の二句であります。
ひとつは「憶念の心がつね」である。いま一つは「仏恩報ずるおもいあり」という相です。憶念とは隨念ともいい、常に思い続けるという意味がございます。念仏の言語は古代インドのことばで「Buddhanusmriti」もしくは「anusmriti」といわれ、「Buddha」は「仏陀、釈尊」、「anu」は「縷々」、「sumriti」は「念ずる」から「仏へ縷々、念いをかける」という、つまり折りに触れ、縁に触れ、繰り返し心に仏を憶う。そういうことを支える日常的な行が「弥陀の名号をとなえ」るということでしょう。
そして、「仏恩報ずるおもい」とは何でしょうか。抑々私たちの日常性とは仏への恩を感じることは無縁ではないでしょうか。忘恩の生活です。平易にいえば全て「当たり前」に感じる日常です。しかし、人生が平坦で終える人はいないではないでしょうか。隣人、先人の苦労の上にいまがあると否定できる人はいないのではないでしょうか。私たちはこの身と自らの選びを超えて時代や国といった環境が与えられて生を享けました。その縁で出遇っていく人々はときに諸仏となって私どもにさまざまに気付きを与えてくださります。「仏恩報ずるおもい」とはそのような生活が開かれることを願われる宗祖のお言葉ではないでしょうか。
19世紀に活躍された哲学者であるキルケゴールは「人間は他人のためにずいぶん多くのことをすることができますが、他人に信仰を与える、これはできません」と仰っておられます。
親鸞聖人は信心を本当の意味で得るということは「憶念の心」と「報恩の心」という相をその成就の相として和讃にしておられます。しかし、信心と得るとはキルケゴールのいうように誰かが誰かに信心を与えるということはあり得ないことでしょう。信心を得るということは人間にとってもっとも主体的な営みであるのでしょう。つまり「憶念」も「報恩」も人間の主体的な生活態度、いいかえれば「求める」者に与えられる心ではないでしょうか。
改めてご和讃を読みますと、
弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり
と、その信心を得る人となることを支える日常は「弥陀の名号をとなえ」るというお念仏の生活であります。逆に念仏が仏の願い(本願)の回向表現であることは信心を得るを人が生みだされていくことによって証明されていくのでしょう。このご和讃は三帖和讃と言われる『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』の最初のご和讃ですので、親鸞聖人の信仰の出発点であり原点である内容を詠っておられるといただいております。
以上です。ありがとうございました。