お話 青樹潤哉(専西寺住職) 2024年9月5日
今回、法話を担当いたします専西寺の青樹です。どうぞよろしくお願いいたします。
以前テレビのニュースで、チンパンジーの母親が子供の亡骸をミイラになっても手放さずに持ち歩いている姿が報道されていました。アナウンサーは弔いの原点ではないかとコメントをしていました。
また、私たち人間の祖先と言われる、今から約二十万年前に生息していたネアンデルタール人の遺跡から、遺体に花を手向けて埋葬していた形跡が見つかったそうです。
その当時、どのような言葉を使い、どのような生活をしていたかはわかりませんが、共に生きた大切な人の遺体を粗末に捨てることなく、丁重に埋葬していた事実に私は深い感動を覚えました。
弔うという行為は、この地球上に生きる生物の中で、人間だけが行ってきた尊い行為です。命終という厳粛な身の事実を前に、悲しみの涙を流し、一心に手を合わせてきたのが人間なのではないでしょうか。
お釈迦様は『仏説無量寿経』の中で、「見老病死 悟世非常」(老病死を見て、世の非常を悟る)と出家の動機を語られました。老い・病み・死する身をもって生まれてきた人間の厳粛な身の事実に目覚めよと。
同じ毎日が繰り返しやってくると、どこかで信じて疑わない私たち。しかし、たとえ同じ場所で同じ人と顔を合わせようとも、同じということなど、常ということなど一つもない、出遇いの連続なのではないでしょうか。
「死を自覚することが生への一番の愛です」宮城顗先生のお言葉ですが、大切な方の葬儀を勤めるということは、その命終という悲しみを通して、私たちが人間として生まれた厳粛な身の事実に立ち返る時を頂くことなのではないでしょうか。