お話 平松正宣(教元寺副住職)/2025年1月18日
今回の法話を担当させていただきます、教元寺の平松です。よろしくお願いいたします。
先日、風邪をひいてしまい、1週間以上体調がすぐれない日々を過ごしていました。微熱で頭がぼんやりして、咳が絶えず出たりするなど何もやる気が起きない状況となり、したい事もすべき事も「明日やればいい」「体調が戻った時にやればいい」と考えていました。そのような状態で、所用があり練馬にある真宗会館に行きました。その時、掲示板に「仏法には明日と申す事、あるまじく候う」(『蓮如上人御一代記聞書』)という、蓮如上人が言われた言葉が掲示されているのを見かけてハッとさせられました。
私たちは普段、当たり前のように明日が来ると思って日々を過ごしていますが、現実はそんなことはなく、蓮如上人も「白骨の『御文』」で「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」と書いているように、すぐ先の事さえ何が起こるか分かっていない存在です。「明日が来る」というのも実は私たちの思い込みでありますが、普段の生活の中では忘れがちになってしまいます。特に今の時代は、科学技術の進歩で新たな薬や治療法が開発されて、昔は「不治の病」と言われた病気やケガも完治できるようになり、自分が病気やケガに遭ったり死ぬということが想像しにくくなったように思われます。だから、今日一日過ごせるという事が、実は有難いという事を忘れがちになり、「明日があるさ」みたいな考えになってしまうのではないでしょうか。
そんな私たちに、「すぐ先の事さえままならず、今しか生きられない存在である」という事実を気づかせ、人生にとって本当に大切なものが何であるかを明らかにするのが仏法なのです。仏教は、世間的な豊かさや幸せを求めるのではなく、徹底的に事実を事実として見つめることによって、煩悩から来る不安と恐れから解放して「なぜ生きるのか」という根本問題を明らかにする教えです。仏教の教えを学ぶのに「明日やればいい」「暇になってからやればいい」と先送りする考えは、教えが説く私たちの事実から最も離れた考えではないかと思います。また、蓮如上人は「仏法には明日と申す事、あるまじく候う」という言葉の後に「仏法の事は、いそげ、いそげ」と言われたそうです。この言葉は「教えに出遇うチャンスは将来ではなく、今しかありませんよ」という意味ではないかと思われます。
とは言うものの、私たちは教えを聞いてもすぐに忘れてしまい、また「明日があるさ」という考えに戻ってしまいます。そんな私たちでも、教えを忘れてしまったら聞き直して思い出し、また歩み直すことができます。学校の宿題は忘れたら先生に怒られてしまいますが、生きる意味を忘れてしまっても阿弥陀様は怒らず、また一から南無阿弥陀仏の意味を教えてくださいます。だから私たちは安心して、教えと共に歩むことができると思います。