2026年9月8日 お話 山名 宗隆(宗善寺住職)
祖母の生家である本龍寺さんというお寺に昔から「怒りたいことがあったら本堂の畳を叩け。悲しいことがあったら仏前で泣け。」とそのような 1文を書いた短冊がこう本堂へいくところに飾られていて。なんだか報恩講でお邪魔して通るたびなんだろこれ。畳叩いてんだ。なんてなんとも思わず見て何度も通過してたんですけれども。
最近ちょっと私自身。ちょっと受け入れがたいね。悲しい辛いそういうようなことが。なんか重なりまして、こういろんな人にね、相談というか話をしてるんです。あれあれあれが悪くてこうなんだよね。あんなことがあってこんなになっちゃったよ、っていろいろこう話して、まあ相手はね、「ああそうなんだ。大変だね。どうすんの?」なんて色々聞いてくれて。もうこっちもそれ相談するだけで心が軽くなるんで。いろんな人にこういうことを話していたんですけどね。ある時、叔父に当たる乗満寺さんの先代住職にちょっとお酒を飲みながら、新幹線の中でね。こんなことがあって、こう大変なんですよ。なんて話を酒のつまみに飲んでるとこうニヤッと先代住職笑って。「でもね、そういう愚痴はね、そういう悩みとかはね、こう話してるっていうのはどこまで行ってもね。愚痴なんだよって。聞く方はね、どうでもいいんだから聞く方は。聞いたふりしてるだけなんだからね。そうなんだ。何にもならないただの愚痴なんだよ」ってそういうことをこうニヤッとしながらこう話されて。うーんそうか、いや、人の話をお酒のネタにしながらなんだこのおじさんはなんてちょっと思ったりもしたんですけれど。そこで思い出したのが、その。本龍寺さんの廊下にかかっている、悔しい時は本堂の畳を叩けと、本堂行って阿弥陀さんに話せと、そういうことが書かれていた短冊のことをふと思い出して。ああ、そっか。まあ人に話すと私の気持ちはスッキリするかもしれないけれど、相手の人にとってはね、それはやっぱりその人の良し悪しの世界で。ああすればよかったね。こうすればよかったね。ああなったね。こうだったね。俺の方がまだヒドかったとか、ああとんでもないことになっちゃってるな、なんてこうそれぞれの基準でそれぞれを語ってくれて。でも結局、それこそお互い愚痴話に終わっていく。取り返しのつかないことをぐるぐるとほっくりかえして反芻しているような愚痴話です。まあ人に話すことでしか人は癒されないっていう有り難い面も確かにありますが、それも人と時と場合によりけりで、期待してるような言葉に出会えるかどうかはわからないです。けれども、それを本堂で、阿弥陀さんの前でこれこれこうなんですよって言いなさいっていうことは。私自身が、ああすればよかったこうすればよかった。どっちがいいどっちが悪いということを計って、私の心を波立たせて。取り返しのつかないものを惜しがって。さらに自分の中に怒りの念を燃やしているんですよ。そういうことに気づきなさいねって事だと思うんです。
そうはいっても、こう本堂行ってもパっとああよかった救われたって風になるもんじゃないですね。ご本堂のすぐ近くに住まわせてもらっているんでよくわかるんですけども。皆さんの前で偉そうにお話していても一歩本堂でればね。いや本堂出るまでもなくふっと意識を逸らせばすぐにね怒りと悲しみに流されていつも通りの怒れる男がいるんですよ。
けどね、そういうもんなんだと思います。最近、法然上人が一日に七万回お念仏していたって話を聞いて、へぇ!たいしたものだね!なんて無邪気に感心していたんですが。あれって、何回も念仏出来て凄いねってはなしじゃないんですね。一日に七万回気付かされているってことなんですよね。逆に言うと七万回も自分の思う通りに行かない心にながされてしまいましたと。計っておりましたと。気付かせて頂きましたありがとうございます南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と。法然上人でもです。流されて、そして気付かされて。私達なんか流されっぱなしですよね。自分の心に振り回されっぱなし。気付きもしない。だからこそあの短冊があそこにあったんだと思うんです。
「怒りたい事があったら本堂の畳を叩け。悲しい事があったら仏前で泣け。喜び事があったら合掌礼拝せよ。いつも仏はいっしょにおられる」
どんなときもですねこれ。どんなときも阿弥陀さんといっしょにいなければ、仏に照らし続けられなければ、流されやすいあなたは自分の気持ちで回りを計って愚痴だけで終わりますよと、目についた時に気付けるように、あの短冊をかいて本堂への廊下に貼ってあったんですね。
私事になりますけど。本当に最近は愚痴の多い日々でした。念仏している暇もない、なんてもっともらしく愚痴ったこともありますが本当に大切な事って言うのは限界のある頭であれこれ考える事ではなく、それこそ本堂の畳を叩き、仏前で泣き、合掌礼拝する、そういった唯々習慣なんだなっておもいます。七万回とはいかなくても。一日一回でも二回でも。気付かせて頂くことを習慣にしてまいりましょう。頭使うとどうしても良し悪しがでてきちゃいますからね。考えるとなかなか念仏も出てこないでしょう。唯々お念仏してまいりましょう。合掌