お話 坪内峰生(教證寺副住職) 2026年3月22日
フェイクニュース、という言葉が一般的になってだいぶ経つかと
思います。真実なのか嘘なのか、簡単に判ることもたくさんありま
すが、社会においても心の中においても、真偽の見分けが付かない
こと、真実であっても心の中では偽であって欲しいと願うこと、ま
たその逆のこともたくさんあるかと思います。
真偽のことで避けて通ることが出来ないことに「死」という概念
があります。生きている人間の誰もが経験として話すことの出来な
い事柄です。誰も語ることが出来ないことなので、命が尽き果てた
その先についての話は、誰にも真偽が判りません。判らないからこ
そ、悩んで、迷って、手を合わせて、浄土に救われたいとひたすら
願う心を持って欲しい、と思っているのですが、現代人の心の中は、
正しいのか間違っているのか、0なのか1なのか、という事が多く
を占めています。
困ったことにそのことを「間違っている」と言いきれない私が存在
しています。
私の知人の中に遺伝性の世界的な難病の人がいます。遺伝性の病
なので早くに親御さんを亡くしています。
その知人は長い期間、病気のことに悩み、他人との接点を持たない
暮らしをしています。自らの行動に自信が無く、生活社会への責任
からも逃げています。
私もこの二十年ほどは直接会うこともなく、年に数回の電話が唯一
の接点です。
「どうせ僕は死んでしまうんだし」
「働いていても急に死んだらまわりに迷惑を掛けるから」
この二つは知人がよく口にする言葉です。人は生まれたからには必
ず死んでいきます。それが世の理です。しかし、命が尽き果ること
は迷惑なことでしょうか。命が尽きるとき、他人の都合は考慮され
ません。そして必ず誰かのお世話になります。現代社会では、人の
死が放置されることはありません。嫌でも誰かが自分の亡骸をその
時代に合わせた埋葬の仕方で見送ってくれます。
知人の病は検査をすれば発症の有無が判明します。発症の有無が判
るということは、行き続けることが出来るのか、病で早くに尽き果
てるのか、どちらかの人生が判るということです。
知人にとっては重たい答えです。とても重たい0か1なのです。本
人にしか判らない苦痛なのだと思います。ですから私も「その検査
から逃げるな」と無責任には言えません。
私自身は「お念仏をいただく身」でありますが、それを信じ切るこ
とが出来ない自覚を持っています。だからこそ、悩み、迷い、考え、
自分なりの答えを探し、阿弥陀様と出会うための人生を模索してい
るのだと思います。知人にも同じように自らの命が尽きるまでの間、
大切な何かと巡り会う願いを持ってくれることを信じています。
今回の話の原稿を作っている最中に、知人から「検査をする決心が
ついたよ」と連絡がありました。ようやく次の一歩を踏み出す決心
をしてくれたようです。どのような結果であったとしても、前を向
いて自らの人生を生き、自信をもってくれることを思いながら、私
自身も知人ではなく友人として向き合える関係になれるように努め
たいと思っています。
稚拙な話ではありますが、お聞き頂きありがとうございます。