お話 渡邉尚康(忠綱寺住職) 2026年5月23日
住職になって3年と8か月となりました。引き継いだものと新たに整備したものと、当たり前ですがお寺というのも長い歴史の上に成り立っていると実感いたします。墓所内には本当に古いお墓もいくつか存在しています。大正、明治、中には江戸時代の終わり慶応というものもありました。お恥ずかしながら、今まで行われてこなかった墓所内のお墓と家、管理者との紐付け作業も終盤、お寺に現存する過去帳と触れてきた長い歴史の旅もそろそろ終わりを迎えつつあります。その過程ですでに管理者不在のお墓も数基見つかったことでありますが、本当に多くのご門徒に支えられて、願われ護持されてきたのだと実感いたします。それほどご縁があるご門徒みなさまでありますので、「墓終い」とか一言に「無縁さん」という表現はできるわけがないのだと思っています。当然、一般的な表現としては「無縁さん」となって墓終いをするということはあります。しかしながら無縁な存在の人間もいなければ、最後に入る場所が無縁墓という名称であってはならないと感じています。みんな有縁な存在として生まれ、そして有縁な存在としていずれ死を迎え浄土へ還っていかれる。葬儀は、亡き人が、送る側の人の生を願い、慈しみ。送る人が亡き人への感謝を表し、報恩を誓う有縁な結びの場。「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、彼の土へはまいるべきなり。」お釈迦様も、親鸞聖人も自分が亡くなった後の世界を案じ、彼の土、彼岸ともいい、浄土ともいう土へ参り、待っているとお言葉を残されました。それほどまでに、死者と生者は一体となって、私たち自身を形作っていると思います。自分の代で何が残せるかわかりませんが、仏教に触れたものは永代に亘って伝えていくお仕事が託されたと感じざるを得ません。なんで法事を勤めるのか、何で葬儀を勤めるのか、なんでお墓を参るのか、なんでが尽きない世の中であります。関わりのなかった、関わりがないと感じていたご縁が実は大きな支えになっていたということがあります。私たちは歴史のタペストリーの一部を生きているに過ぎませんが、私という存在は今の一部を彩る確かな一員として、その歴史に触れ、感じたものを更に次世代へ繋げていくお仕事があるのだと思います。